形のない不安
北海道の短い夏が終わる、と思ったらまた振り返してます、夏。
むし暑くて嫌ですね。
毎日書いていたブログを長らく空けてしまいました。
なんだか何もなくて。
かといって、最近も特に何もありません。
でも今、私の中でとてもめんどくさくてやり場のない怒りと孤独感と不安が渦を巻いています。
私は小学生の頃から"誰かの一番"になりたいと思っていました。
なんでこんなめんどくさい奴になったのかはわかりませんが、子供の頃は一番仲の良い友達に「私たちって親友だよね?」と執拗に聞いていました。
その頃から、一番仲の良い友達が他の友達と二人きりで仲良く遊ぶのが嫌で、親友を取られると思ってしまって、そんなことがあるたびに親友である確認をしていました。
なんてめんどくさいんでしょう。メンヘラじゃん。
今はそんなあからさまなことはしないものの、心の中では、
「私だけを好きでいてほしい」「私が一番であってほしい」と思ってしまいます。
決して異性ではないんですよ。
同性のただの友達なんです。
なのに、私が一番じゃないと悲しくて寂しくて嫌なんです。
なんででしょうね。自分に自信がないからですかね。
きっとすぐに嫌われてしまう。
こんな私のことなんかそんな好きじゃないだろう。
ちょっとでも粗を見せたら嫌われる。
嫌がられる。
めんどくさがられる。
煙たがられる。
etc...
なのでこんなに不安なんですね。
「もっと自分に自信もって!」とかたまに言われるけど、そう言う風に言う人ってすごく自分に自信があるんでしょうね。見てればわかります。
可愛いあなたは素晴らしいですね。
いいですね、自信たっぷりで。
羨ましいです。
と、特定の人の愚痴になってしまいました。
私はいつ"誰かの一番"になれるのでしょうか。
こんな"一番"にこだわる自分が嫌いです。
なんでこんなに気にしてしまうのか。
きっと前世では不倫相手だったんですね。
永遠の二番手、三番手。悲しいですね。
この人生で私を一番好きだと言ってくれる人に、私は出会えるのでしょうか。
去るもの追わず
今日は人生初のワンピースを買いました。
とてもいい買い物をしました。
新しい服を買ったときってとてもウキウキしますよね、早く着て出掛けたい。
今日、Twitterで前まで仲良く話していた人にブロ解されていたことに気がつきました。
最初は「え?なんで?何か悪いことした?は~??」って思ってモヤモヤしていたのですが、
それをブロ解された人と共通の友達に話してみたら、なんとその子もブロ解されてたみたいで、同じくモヤモヤしてました笑
なんかいろんな人をブロ解してるみたいでした。
前話していたときも、「気を使わないといけないタイプの人だな」って思ってたし、悪口とかその人の中の偏見とかで喋る人だったから、こうなってよかったかもですね。
つくづく思うのが、私の人生に必要ない人・必要なくなった人っていうのはどんどん離れていくものですね。
私自身も「あ、この人もう必要なくなったな」って思ったら自ら離れていくのですが、あちら側から離れてくれることもあって。
最初離れられたときは「ムカつく」とか「寂しい」とか思うのですが、後々になると「あのとき離れてくれてよかったな」って思うことが多いんです。
必要ない人がどんどんふるいにかけられてる感じ。
そしてそういう人が去ったあとは新しい人が入ってきたりします。
そうして付き合っていく人が入れ替わっていくのですね。
確かに離れられて後々よかったと思えない人、離れられて寂しいと思う人もいますが、それはもう仕方のないこと。
相手の人生に私が必要なくなったってことなんですかね、きっと。
まあそんなとき私は「へっ、可哀想に。お前は自分を思ってくれる友人を一人失ったんだぞ」「私のような優しい人間はいないのに可哀想」と大袈裟に思ってみたりもします。
自分の人生に必要ない人はどんどん弾いて生きましょう。
ちゃんと見定めたうえで。
過去を振り返る
やっと休みがやってきました。
なんとも辛く長い暇でした。
このままではダメな気しかしません。
でも今はしょうがない。辞められない。
私はたまに過去の楽しかった日々を振り返ってしまうときがあります。
そういうときは決まって寂しいときです。
今日、前は遊んでいたグループで花火をしていたそうです。
悪いことではないですが、私が誘われることはもうないグループです。
そこで遊んでいたときは楽しかったのに、ある出来事があってからはもうそこにはいけなくなりました。
まあ男女のあれですね。
そんな楽しかった日のことを思い出して、あの事がなければ私も今日花火に誘われてたのかなーとか、楽しかっただろうなーとか、そんな感傷に浸ってしまいました。
何がいけなかったのかな。
どこで間違えたのかな。
過去を振り返っているときは寂しいときです。
未来を見れなくなってしまう。
久しぶりにこの感覚に陥りました。
最近前ばかり見ていたので、こんな感情忘れていました。
こういうときは寝るのが一番ですね。
2連休を満喫したいと思います。
おやすみなさい。
心を埋めるもの
連勤二日目です。まだまだいける、大丈夫大丈夫。
出勤しても仕事が全然なくてめちゃくちゃ暇で、それなのに話をする相手もいなくてひたすら時間が過ぎるのを待つだけ。
私はなんのためにここにいるのだろうか。
いなくてもいいじゃないか。
他の二人は楽しそうだ。
いなくてもいいじゃないか。
そう思いながら8時間過ごしました。
耐えました。
こんなにつまらない仕事、未来になんのプラスにもならない仕事、辞めちゃいたい。
私は小さい頃友達に「私たち友達だよね?親友だよね?指切りしよ」とよく確認をしていました。
今思うと、とても重いしめんどくさいですね。
今はさすがにそんなことしないですが、聞いてみたい、聞いて安心したい気持ちはとてもあります。
それに加えて独占欲が強いです。なんて重いんだ。
なんでこんなに独占欲が強いのかは自分でもわからないのですが、これも子供のころからのことです。
自分が一番の仲良しでありたい。
私を特別扱いしてほしい。
でもそれは表には出しません。
重たいのはわかってるから。
嫌われたくないから。
めんどくさい性格ですね。嫌になります。
人間に向いてないような気がします。
私は宇宙が好きです。
目を閉じると星々が光輝く真っ暗な宇宙。
無限大に広い宇宙の中の天の川銀河の中の小さな地球。
その中の小さな日本という国の小さな小さな人間。
よくある話ですが、そう考えると少し気持ちが軽くなります。
さ、明日も頑張りましょう。
気にしないこと考えないこと
とても長い3連勤初日です。
3連勤なんて大したことないのですが、朝9時から夜10時までの3連勤はとても長く感じます。仕事も仕事ですし。
暇なのに話をする人がいない苦。
何事も深く考えすぎて気にしすぎて人生を損している私です。
そんなに考えることなんてないのに、とことんネガティブな方へ持っていってしまいます。
私はよく「真面目だね」と言われます。
それを良い意味で言われている気がしません。
真面目=めんどくさい。真面目=面白くない。
そういった意味で言われている気がしてならないのです。
例えば今日、休憩中にカップ麺を食べようとお湯を入れて3分計って待っていました。
そしたら同僚に「え!3分計ってる!真面目だね~」と言われました。
私からしたら「え?なにが?」って感じです。
"3分"と書いてあるから3分待っているだけなのに、なんでそこで真面目だと言われなきゃいけないのでしょうか。
私も子供の頃は3分計らずに何となくで作っていました。
でも伸びちゃったり堅かったりして失敗をした経験があるので、きっちり書いてある通りにした方が美味しいからその通りに作ってます。
ただ美味しくカップ麺を食べたいだけなのに、それの何が真面目なのか。
一緒にいた同僚も「私も計らな~い」と言っていて、すぐに私は少数派になってしまいました。
私は「真面目」と言われても嬉しくありません。褒め言葉にも思えません。
変に真面目な自分に飽き飽きします。面白いことも言えないつまらないやつです。
日々、面白い言い回しをする同僚を見ては「こういうときはこう言えばいいのか」とか「こういうアクションをすれば面白いのか」とか観察してはいるのですが、それをやろうとしてもなかなかできません。
多分こういうことを考えていることもまた「真面目」と言われる理由のひとつなのでしょうか。
タイトルから最初に書きたかったこととだいぶ話が逸れてしまいました。
私は「気にしすぎないことを目標に生きていこう。気にしていても仕方がない」ということを書きたかったのに。
他人なんかどうでもよい。私のことをどうでもいいと思っているやつのことなんかどうでもいいんです。
明日もまた長い一日でしょう。
頑張っていたらきっと良いことあります。
頑張りましょう。アイスを食べながら。
友達?友達じゃない?
今日は二人の友達と会えました。
私は人と話をするのが好きです。
なので、話の合う人と会えるのは嬉しいです。
私は以前、友達を友達と呼べない人でした。
理由は「こちらが友達と思っていても、相手は友達と思ってないのではないか」と思っていたからです。
「友達」って言ったら相手に失礼。しかも友達と思われていなかったらとんだ恥をかく。と思っていて、話をする仲の人がいたとしてもそれは友達ではなく、クラスメイトや知り合いと呼んでいました。
だから私は友達がいませんでした。
現に遊ぶ人がいなかった時期も長くありましたけど。
でも、いつの時か私は思いました。
「私が"友達"と思わなければ相手も友達だと思ってくれないのでは?」と。
私が知り合いだと思ってる人に「友達」と言われたら嬉しいし、逆に「知り合い」と言われたら「ああ、この人にとって私は知り合いなんだな」と、それ以上にはなりません。
それに気づいたときから、私はちょっとしか話したことがない人のことも、親に話すときや他の人に話すときなどで「友達」と呼ぶようにしています。
最初の頃はこッ恥ずかしかったです。「友達」って…(照)みたいな。
でもそれを続けていると「あれ?私って結構友達いる?」みたいな自己暗示にかかります。
その暗示はとても心に余裕が持ててよいです。
たまにそれが幻のように感じて、また前のように「私が友達だと思ってるだけで本当は友達なんていないんだ…」とネガティブになってしまうこともありますが、でも、それでも、前とは違い遊んでくれる人もいるし、なんだかんだで話しかけてくれる人もいます。
それだけで私は幸せです。
長く友達がいない期間があったせいで不安や孤独感に襲われることも多いですが、その期間があったからこそ「友達」がいることの有り難さや楽しさをたくさん感じられるので、それもまた結果的に良いことなのかなと思っています。
孤独を知っているから孤独の気持ちがわかる。気がします。
"友達"の定義って難しいですね。
子供のころは「友達になろうよ!」「うんいいよ!」で友達成立だったのですが、今はそんな確認なんてしないですし、承諾制でもないですし。
だから、私が友達だって思ったらその人は友達です。
その人が友達だって思ってなくても私は思ってます。
逆に相手が友達だって思ってくれていたら私も友達だって思います。
だから友達だって思わないデメリットなんかないです。
目に毒キノコ
今日、仕事中に「あ、今日は○○のことについて書こう」と思い付いたのですが、その肝心な○○が何かを忘れてしまいました。
それを思い付いた数分後に「こういうことってメモっとかないと忘れるんだよな~」「でも数分経っても覚えてるんだから大丈夫だな」って思いながら忘れてしまいました。
過去から学ばない人間でした。今度からはちゃんとメモろう。
この間書いた「私が世界で一番大嫌いな女」についてです。
あの記事を書いてから「久しぶりに見てみよう」と思い、その人のTwitterを開いてしまいました。
そしたらまあ嫌悪感が沸き上がること沸き上がること。
まだ大っ嫌いじゃん、私。びっくりしました。
嫌いな人こそ目の毒極まりないですね。
文を見るだけで鳥肌が立ちます。
心の中で罵詈雑言を吐きながら見ていたんですけれども、こんなに無駄な時間はないですね。
私はこんな堕落したヒューマンに時間を費やすほど暇じゃない、ということを忘れていました。
うっかりです。
平成最後の貴重な時間を一秒たりともあの人間にはやらん。
そう誓った今日でした。
文頭に言った「今日書こうとした○○」、何か書いてたら思い出すかなと思っていたのですが、何も思い出す気配がないので、ふと思い出したときにでも書こうと思います。